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ジャニーズに浪漫を求めて生きています。

『ブラッドブラザース』の儚さを振り返る

「自担主演の外部舞台」

なんて素敵な響きなんだろう。自担主演の外部舞台。
2月14日。わたしは気合いを入れてお気に入りのワンピースを着て出かけ、一度エプロンに着替えて5時間バイトをし、もう一度ワンピースになって銀座線に乗った。
自担主演の外部舞台初日だった。
 
ネタバレです。
 
『ブラッドブラザース』は1983年ロンドンで初演された、由緒正しい演目らしい。少し調べたが、想像以上に詳細が出てこなかった。日本では、武田真治くんがミッキーを演じたHPが上のほうにヒットした。
舞台ではまず初めに、結末が告げられる。ちなみにこれ、2度目に見たときはじめて知った。初日はとんでもない席だったので、あの位置が見えなかった。
その後、物語は36分間、主演のふたりが出てこないまま進む。やっと現れた自担は、ショタ役だった。一幕中ずっとショタだ。休憩をはさみ、二幕では思春期真っ盛りになって登場する。そしてキラキラの青春時代を送り、儚く散る。桐山照史演じるミッキーと神山智洋演じるエディ、集約するとこんな感じだ。
とりあえず行こうか悩んで感想ブログを漁っている方は、スクロールここまでで大丈夫です。あのかわいさ、百聞は一見にしかず。ぜひ松竹座でご覧になってみてください。
 
「まるでマリリンモンロー」
劇中歌で何度も繰り返される、マリリンモンロー。周知の通り、彼女は儚く謎めいた生涯を送った。
ミッキーとエディのそれをマリリンモンローという単語がさらに美しく、切なくさせる。きっちり楽しく生きるふたりの人生は、いつしか狂っていった。その原因は生まれる前から決まっていた"宿命"。
ステージの上の世界は、宿命と迷信に惑わされる。「新しい靴をテーブルに置いてはいけない」「二羽のカササギを見たら不幸を訪れる」「指をクロスして10数えれば、すべて嘘になる」……そして「双子が互いを知った時、命を落とす」。
契約を交わした母たち。7年後、誓いを立てる息子たち。このふたつの矢印は完全に矛盾している。そこに拗れが生まれないわけがないのだ。
 
ミッキーは幼少時、兄・サミーの持つエアガンを手に入れる。警官に捕まったときのあれだ。彼はこれになぜか乗り気じゃない。自分で持ってきたくせに、リンダやエディが興味を持つと、つまらないもののように腰に隠してしまう。
思えば、ミッキーの人生を大きく誤らせたのは、銃声だった。自分の人生のゆく先を、あるいは予感していたのかもしれない。
 
順調に人生を歩み、ミッキーの持たないものをすべて嫌味なく持つように見えるエディ。それでも彼は、知らない言葉の意味を尋ね、知らない遊びに目を輝かせる。
持つ者、持たざる者、そんなのは主観でしかないのだ。ミッキーはやっと手に入れたリンダという愛までも、エディに奪われたと感じる。でもエディにとっては、好きになったリンダはやっぱりミッキーの世界のひとで、自分の知らないところにいたのだ。
そんなエディはラストシーン、議員になって話す。
「トンネルの終わりには必ず光がある。だが問題は、我々のうちの何人が(それを目にすることが出来るかだ)」
ふたりは、光を見ることが出来なかった。トンネルの終わりまで辿り着くことが出来なかった。
ミッキーがエディを撃ち、警官がミッキーを撃ち、ミッキーが嫌いだった銃声のなかで、ふたりは同時に息絶える。「安心してください、すべて終わりました」。淡々とふたりはチョークで象られ、生みの母は自分の罪を悔いながら、息子たちの手と手を握らせる。これはきっと映画の一場面、出ていたのはマリリンモンロー。
 
ミッキーは死の直前、真実を明かす母に向かって言った。
「なんで俺を渡さなかった。そしたら、俺がこいつだったかもしれないのに」
そんな悲しい物語だ。
 
 
 
幕が閉じると、カーテンコールの最後の最後、最大級の拍手に包まれて桐山照史神山智洋が姿を見せた。そして一列に並び、ど真ん中で笑う。
この瞬間わたしは、これが自担主演の外部舞台であることを思い出した。たくさんの舞台プロの真ん中で、アイドルである彼が祝福されているのを見る瞬間はとても幸せだった。
まだまだ拙いかもしれないけれど、これがやがてセンター割りでなく0番になり、画面の中になり、スクリーンの中になることが一種アイドルのステータスで、その頂点に君臨しているのが、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞したV6岡田准一ということになるのか。
 
ミッキーとエディの儚い人生を想いながら、桐山照史の未来に馳せた。